Lamp harajuku

#007 林 央子

時代とともに変容してきた多様なファッションを、各国の個性豊かなアーティストへのインタビューを通して体感し続けてきた林央子さん。・・・

*どんな少女時代だったのかなというのと、編集を志したきっかけをお聞きしたいと思います。

– 奥手だったので、背が伸びるのもすごく遅くって。女の子らしい体型になるのが遅かったんですね。高校生になる時に私服になって、服に興味が出たんです。当時アイビールックもはやっていましたが、ルールがあるスタイルは苦手で、グレートーンの格好が好きでした。

編集という仕事は、大学を卒業するころまであまり考えてなかったんです。母が読んでいる雑誌とかは見ていて、『家庭画報』とか『暮しの手帖』とか、そういう紙の文化に対する憧れはありました。

就職活動がはじまって編集の仕事を漠然と志すんですが、あまり要領も良くなくて。憧れてはいるけれども、出版社の就職活動に遅れを取っていてしまって。マガジンハウスとかは学生時代からのアルバイトという方が多いですが、私はそういう経歴もなくて。ただ資生堂は”ひとつの企業”として目指していたんです。女性が働くのにいいのかなと思っていました。そんな中でいろんな方に会ってお話を伺っている時に、『花椿』という雑誌があることを知って、すごくやってみたくなったというか・・。

「雑誌をマーケティングから作る」というのが当時腑に落ちなくて、自分の中でどうしたらいいのかなと考えていたら、『花椿』という雑誌は別の視点から編集しているんだということを知って。就職活動のぎりぎり最後くらいに『花椿』を作っている方にお会い出来きたのがきっかけでした。

*『花椿』は、私が見ていた90年代も、ファッションがしっかりと掲載されていて。巻頭のつくりこみもすごく素敵なイメージでした。央子さんが入られたときは、どのような感じでしたか?

-平山景子さんという方が当時の編集長だったんですけど、その方の作った世界に憧れて、私も仕事を始めたという感じでした。彼女は私が生まれる前から花椿で働いていて。・・そうですね、平山さんが作った世界は、ファッションにすごく特化していたけれども、ファッションだけでもないというか。出張とかあると必ずアートギャラリーをチェックして、展覧会もよく見てという人だったので。平山さんにはすごく影響されたと思うんですよね。

*実際に入って編集をされてみて、思い描いていた事と違うことはありましたか?

-職場に入った時は本当に無我夢中で。言われたことをとにかく5年くらいは本当に編集部以外の人は知らずにやっていた感じですね・・・10年くらいしてから初めて編集部以外の人とも繋がりができたって感じで。それまでは編集部で教わることに没頭していました。

10年経つ前くらいのときにパリコレとかに行かせてもらい、そして1996年に花椿史上初のニューヨーク・ロケをしたときに、スーザン・チャンチオロに出逢ったんです。それまでは海外での撮影といえばロンドンとかパリとかでした。ファッションを追いかけていく上で、ずっと重要な拠点だったのがロンドンとパリだったんですよね。

ロシア人でロシアからパリに移ってファッション・ジャーナリストの仕事をしてた、メルカ・トレアントンさんという女性がいました・・・『花椿』は、その方が紹介するヨーロッパのファッションを紹介していくメディアという立場だったんです。
ちょうど80年代ってパリに対してロンドンがあって、ロンドンが凄くエッジというか新しいとか若いっていうのがあって「パリとロンドンを等価値で見るファッションメディア」というのが『花椿』の新しさだったと思うんです。

けれども仕事を東京でして、パリコレですごい数のショーを観て、なかなか現実感のないお洋服をたくさん見ているな、とも感じていました。その反動のようにして90年代の半ばには、個人的な興味はアメリカ文化に惹かれていきました。それで、自分の企画が初めて編集部に通ったニューヨーク・ロケになるのですが、それがスーザンと出会うきっかけになりました。

*アメリカ文化に惹かれたのはどのようなところだったのでしょうか?

– 「アメリカ文化」といっても全体じゃなかったんです。美大を出たばかりとかの若い世代の人たちが、ミュージックビデオを創る。というのが当時のアメリカの新しい動きで、その周辺からグラフィティやスケートボードの文化を発信する人が出てきていました。その世代の若い人たちが既存の枠にとらわれず好きに表現する事ができるという熱気が伝わってきていました。

その頃の私は、ミュージック・ビデオを監督したり、ソニック・ユースのジャケットのADをしていたマイク・ミルズというクリエイター(今年、監督映画『20センチュリー・ウーマン』の公開が予定されている)に興味があって、彼の背景にあるスケートボードカルチャーの存在を知りました。あの頃のパリには、グラフィティやスケートボードなどの文化はなかなか届いていなかった気がします。シックの牙城という感じでした。

当時ファッション誌の『purple』を買っていた人には、1997年パリに『Colette』が登場したことで、スケートボード周辺のカルチャーに触れる機会が初めてあったと思うんですけど。スーザンは最初の夫がスケートボードカルチャーの中心人物でしたし、マーク・ゴンザレスとコラボレーションしたりもしていました。その時代の表現に開かれている人なんです。

*90年代後半は、アントワープのデザイナーを筆頭に、カッティングやデザインがしっかりされた洋服がたくさん出ていたので、スーザンのヌケ感はとても衝撃で新鮮でした。

-スーザンは多分・・・どこからでもない感じがしたのかもしれない。何が母体となっているかの文化の背景がすけて見える感じというのが、ヨーロッパの服飾シーンだと思うんです。けれどスーザンはそれがわからないというか。特に初期の頃は可愛らしい要素がなく、本当にラフな感じでした。多分アーティストっていう人、本能的なアーティストに初めて会ったのがスーザンなんじゃないかと思うんですよね。やっぱりびっくりしちゃって。この人すごいなっていう。それで取材を重ねてきたってことかなと思います。

*『here and there』を創刊するきっかけや、その他記憶に残っていることなど教えてください

-エレン・フライス達が作っていた雑誌には、とても刺激を受けました。エレンたちは編集の仕事のノウハウとかなく、当時好きなように『purple』を作っていました。みんながパソコンを使うようになって、アイディアや発想から編集を始めた最初の世代の人達だったんですよね。自分も何かやってみたいなと思ったのは、『purple』のようなメディアがあったのが、とても大きかったですね。自由でいいんだ、と勇気づけられました。

またスーザンの影響は、やはり大きかったと思います。『here and there』の創刊1号は、スーザンの活動を見続けてきた思い出を綴った日記のような原稿を収めました。私が彼女を最初に取材したのが3回目のコレクション「RUN3」だったのですが、そこから全12回のRUNコレクションを終えて一旦終了する、というタイミングまでの原稿をまとめたのです。

スーザンは出逢った当初から健康のことを考え、マクロビオティックも早くから取り組んでいました。瞑想も行っていて、それをさまざまなかたちで制作に取り入れていたんです。「RUNレストラン」では自身の作った食事を振る舞ったり。一緒にアトリエで働くスタッフのために料理したり、自然と生活の中からクリエーションが生まれてそれが作品となっていっていました。

コズミックワンダーも、今はカゴや器の展示をCenter for COSMIC WONDERでやってますけれども、2000年代始めにパリコレで発表していた頃も、タンスと洋服が一体になっていたり、壁についたドレスとかがありましたよね。発想の中に生活空間というのがしっかり入っていて、そこからすごく多面的な作り方をしてるなっていうのは、その頃からずっとあったと思っています。

ファッションって産業としても大きく、切り取って流行現象だけで語られていたり、そこで回るサイクルにもトレンドがあるのですが、スーザンとか前田さんの来た道を見ていると、すごくこう、生活の中のひとつのものづくりなんだなと思いますね。

*今、央子さんが興味があることはなんですか?

– そうですね・・・移住して制作環境を変えている人達はすごいなって思いますね。そこにすごい色んなドラスティックな変化があるはずで。自分なんかはやっぱりなかなか家族や生活があって、東京を離れられないんですけれども。『purple』創設者の一人エレン・フライスは南仏へ。スーザンの友達で思想家の、パスカル・ガテンもニューヨーク郊外のビーコンに移住しました。そうした動きに伴う新たなコミュニティ作りの仕方に興味があります。

パスカルが言っていたのは、お互いに教え合うっていう生き方。お金を流通させないんですね。貨幣経済じゃないって言っています。こういう移り先で、例えばパソコンが得意な人がパソコンを教えたりして、そのかわりに手作りの技法を教えるとか。

*凄く素敵ですし、人が生きることの原点ですね

– エレンとは仕事を離れてもメールを交わします。彼女がパリで暮らしていたころと生活が随分違うことがしみじみ伝わってきます。美しさも、厳しさも両方あるのだろうと思います。

*そうですね、COSMIC WONDER も京都の美山に移住されましたし、それぞれの生活がどうやって変わったのか今後知りたいです。『here and there』の次号を出されるとか予定はあるのでしょうか?

-今すぐはちょっとなくて、ちょっとどうやっていこうかなって考えている時間かなと思います。

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2002年、林央子さん自費出版の『here and there』が発売されました。15年経った今でも、服部一成さんのデザインや登場する人々のクリエーション、そして林央子さんの紡ぎだす言葉のひとつひとつが、2017年の今の私にとって過去でも現在でもなく未来を感じさせてくれます。
作家を見続けていくこと、とても誠実でありなおかつチャーミングな文面。華奢な身体にもかかわらずかなりのアグレッシブ具合、そして極めつけが丸襟の白いブラウスがとてもお似合いで。完全にノックアウトなのでした。

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林 央子 Nakako Hayashi
1966年生まれ。国際基督教大学卒業後、1988年資生堂入社、『花椿』の編集に携わる。 2001年、退社してフリーランスに。2002年3月に、個人出版の『here and there』のプロジェクトをスタート。2011年、著書『拡張するファッション』を上梓。2014年、同書がもとになった同名の展覧会が水戸芸術館現代アートセンター「丸亀市猪熊弦一郎 現代美術館」で開催され、カタログ『拡張するファッション ドキュメント』(DU BOOKS)が刊行された
http://nakakobooks.seesaa.net/

聞き手: 矢野 悦子 Etsuko Yano
https://www.instagram.com/etsuko.yano/

写真: 湯浅亨 Tohru Yuasa
www.yuasatohru.com